台湾がかつて日本だったという事実は我々戦後生まれの人間にはまったくピンとこない話なのだが、まあ、台湾へ行って実際に日本語をしゃべる大人に会うと、なるほどと思う訳である。
そうかー、そうなんだー、ということで実際その時代、大正から昭和の初期を生きた日本人は台湾をどう思っていたんだろうと気になるので調べてみようと思った。
なかなか見つからないんだが、野上彌生子(やえこ)という人がいて、当時の台湾を旅行した時の日記を残している。
「野上弥生子全集」第15巻 紀行 1
以下それを読んだ時の読書メモだ。
蓬莱丸なる船で基隆港に着く。始政四十周年記念台湾博覧会の招待客らしい人も一緒だったというからこれは1935年のことらしい。
WEBで検索すると蓬莱丸は大阪商船の1万トン級の大型船舶ということで、写真で見ると相当大きそうだ。
1万トンと言われても想像もできないがタイタニックか!?みたいな世界。
台湾航路は神戸 - 門司 - 基隆。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_210.htm
台北での宿泊は官邸、とあるので、現在の迎賓館、当時の総督官邸だろう。
ここには皇太子時代の昭和天皇も宿泊した。
階上の3部屋とある。窓から総督府が見えると書いてあるが、実際距離としてはどれくらいに見えるんだろうか。
町並について。
清の城壁が撤去された跡は並樹路になっているとあるが、まだところどころに壁は残っていたらしい。
で、人が集まっている繁華街はやはり大稲埕。
台北の街の独特な作り(亭仔脚)について、珍しかったらしく、かなり詳しく説明している。
あと龍山寺の広場で台湾の人々が銅鑼や鐘を鳴らしたり踊りを踊っていたらしい。
この本でも檳榔の話が出てくる。(今も売っているんだろうか?)
他、パロという名前の果物が出てくるが、なんのことだろう?
で、東海岸の旅へ出発。
汽車の旅で宜蘭線に乗って港町の蘇澳まで。そこからは自動車。花連港まで31里。
さらにタロコ入口からバタカンまで3里を草履履きの歩きで。
バタカンという地名が見当がつかないが、こちらのブログ記事によれば
錐麓断崖のあたりにタイヤル族の部落があり30名が常駐するバタカン警察官吏駐在所があった、そうなので、ま、その辺ということだろう。
断崖絶壁の道を進むので
「植民地でなくてこんな異常な仕事が成し遂げられたであろうか。」
なんて書いている。
恐怖の吊り橋をいくつも渡ってようやく到着。
現地の人を藩人と呼び、藩人はいつも裸足らしい。webで調べると、先住民の高山族をそう呼んでいたということらしいが。
タイヤル サイセット ブヌン ツオウ パイワン アミ ヤミ の7種族をまとめて蕃族ということらしい。
蕃域 蕃地 蕃女 蕃童 蕃社 蕃人 蕃族 蕃刀。。。なんでも蕃がつく。
教育は駐在所の巡査がやっていたとあるが、引率して蕃童を台北の博覧会に連れて行ったというから相当なものだ。
amazonでは見つからないが図書館へ行けばあるだろう。
日本からねえ、そんな時代に、こんな断崖絶壁でお巡りさんって、博覧会の引率って、どうにも想像できない世界だが。。。